良い記事を読んだ。良い動画を見た。良い小説を読んだ。

タイトルはあまり気にしなくてもよい。

現実は色々と非情なので、それを認め、心から実感した時、人は必ず泣くのだ。

 その意味で、眞一郎は乃絵と共通する涙を流した(13話、薄暮の海辺のシーンは印象的である)。一方で、果たして比呂美がどうなのかについては疑問が残る。彼女は執着の塊の様な少女として描かれているので、比呂美の涙については案外放置されたままなのかも知れない。現実は残酷である。我々はここで涙を流さねばなるまい。

 この作品の真の残酷さは、スキップされた時間が最後まで戻らない点にある。現実的には当たり前の話なのだが、物語を読むとき、我々読者はつい「最後にはもとの時間へ戻るのではないか」という期待を持ってしまう。しかし本作はその期待をケチョンケチョンに蹴飛ばす。時間は戻らないのである。当たり前だが。

 順序が逆になったが、シンフォニックレイン美少女ゲームというジャンル設定からして嘘くさい虚偽まみれのミステリーで、雨の降り続く街を舞台に交錯する少年少女たちの思惑を通して人の相互理解不能性という絶望について実体験する嫌な作品である。ぶっちゃけ人と人は意思疎通できないよねという話でさえある。

こりゃ良い記事。話題にしている三作品を全て「現実の非情さが心を打つ」という観点で説明している。


こういう琴線に触れる感想文を読んだときに、ふと自分はなんで今ブログなんてやっているんだろうとか考える。
言いたいことを伝えるために無駄を省いてわかりやすく整えてよしこれならだいたいの人にはわかる、と改めて見直してみるとあら不思議。受け取ったはずのものがほとんど見当たらないではないか、なんてことはよくある話で、それじゃ自分の最初のモチベーションはなんだったのか。色々と本末転倒ではないのか。……とか思って頑張って伝えようとしてもなんだか上手くいかないので、そのまんま表面だけなぞった情報をトスするに留めてみると、こちらは工夫次第でわりと上手くいったりする。30秒で理解できることならそりゃ伝わりやすい。ああ、自分にはこれしかできんのだなあ、いやしかし、とかぐるぐる考える。
そして結局、この記事もおもしろいと思ったものをトスしているだけである。良い記事を読んだ。良い動画を見た。良い小説を読んだ。良いゲームをプレイした。それを報告して興味を持つ人が出れば楽しいし満足。基本方針としてはそれで良いと思っているのだが、人間そう単純にきっぱりと割り切って生きれるもんでもないのでやっぱりぐるぐる考える。
まったく面倒なことだが、割り切ってシンプルな生き物になりたいかと言えばそうでもない。あきらめずにぐるぐると足掻き続けてりゃいいんじゃねーかなーと思う。たぶんどこにも辿り着かないけど。じゃあ「辿り着いた」ら満足するかといえば、それも怪しいもんだ。


隣の芝生は青いと言ってしまえばそれまでだが。