相手が対等かどうかなんて話してみなければわからない+『サマーウォーズ』雑感

海燕さんから素早く返答が返ってきたので話を続けましょう。『サマーウォーズ』がきっかけの話で、せっかくお互い見てるんだから今回は作品の話も少し。
話の流れは以下参照。

非モテ名無しさんの扱いについて

さて、まずは最新記事に対する反応から。「読解への批判ではなく、姿勢への批判が続くのは不毛。」という意見もありますけど、まあたまにはこういうのもいいじゃないですか。そう言いたくなる気持ちはわかるけど、なんにでも例外はある。具体的に言うと「スカイプ辺りで話し合ってもいいのだが」と言える相手であれば、そうそう不毛な泥仕合にはならんだろうと。逆に言えば、海燕さんにとって例の増田がそういう相手だったかというと、それは全然違うよね、という話でもある。


最初に僕の批判を要約しておくと、「増田の使い方が酷すぎる」。この一点に尽きます。

 仮に、ぼくが何かの映画を見、その見方をネットに発表して、批判を受けたとする。そのとき、「ぼくにはそう見えちゃったんだからしかたないじゃないか!」といえば、批判者は納得してくれるだろうか。そうは思えない。

 たしかに「どう見えちゃったか」は個人の内面の問題である。しかし、その見え方を文章にしてネットに発表した時点で、それに対する責任は発生するはずだ。したがって、過剰な言い草であったことは認めるが、批判そのものが不当であったとは思わない。

まず批判そのものが不当であったかどうかについて。
僕も発表しちゃった以上原則的には批判を避けることなんかできないし、彼が叩かれるのは当たり前だと書いています。批判したことそのものを問題視してるのではなく、使い方が悪いと言いたいのです。僕にはあのたった6行が「作品の半分しか見ていない」と断言できるものには見えなかったんですね。そこを断言できるほど彼は意見を書いていない。

 次に、敷居さんが用いる「弱い者いじめ」という言葉にはつよい抵抗がある、と述べておこう。そもそも、批判という行為は、あいての論旨に欠陥がある、と思ったからこそ行うものである。ちょうど敷居さんがぼくの論旨に欠陥を見つけてそこを指摘しているように。

次に弱いものいじめに見えた、という点について。
弱いものいじめ云々の指摘については僕も筆が滑りました、申し訳ありません。「僕にはそう見えちゃった」では納得できないと思いますので、そう見えた理由を述べます。

 それでも、敷居さんは、ぼくの意見は「強い」のだから、何か「弱い」意見を批判したら、それは「いじめ」になる、「かっこ悪い」行為だ、というのだろうか。

 ぼくにはそこまで自分が「強い」という自覚はないから、「弱い者いじめをやめろ」といわれても、ただ困惑するばかりである。

 敷居さんは当然、ご自分のぼくに対する批判は「いじめ」にはあたらない、と考えておられるのだろう。しかし、ぼくの批判は「いじめ」だと仰る。その線引きはどうなっているのだろう。皮肉ではなく、ふしぎに思う。

「強い弱いの判断はできない」とのことですが、「強い人弱い人」の判断はともかく、「強い意見弱い意見」なら僕はあるていど判断可能だと思う。強い弱いって表現は少し不適切かもしれませんが、単純に文章の中に込められた意図の量を計るくらいはできる。特に今回の場合すごく露骨に差があって、あのたった6行の増田の記事に対する批判の内容としては明らかに過剰である、というのは海燕さんも同意していただけたはずです。「弱いものいじめ」に見えちゃったのは、その点。
単に「言いすぎだ」という指摘で足りることで、「弱いものいじめ」ってのは僕も言いすぎでした。表現が不適切であったことを認めます。ごめんなさい。

 いや、そうはいっても、お前は大手サイト管理人なのだから力があるのだ、だからひとを批判するときは慎重にならなければならないはずだ、という人もあるかもしれない。

あと、「有名ブロガーは強くて責任があるので弱いそれ以外の人間を批判してはならない」みたいな言い草は僕も世界で5本の指に入るくらいきらい。僕の意見がそう見えたのなら遺憾だなあ。

 そこで問うのだが、ぼくは今回、何か正当でない行為、フェアでない行為を犯しただろうか。敷居さんはぼくの行為を「かっこ悪い」と批判する。ぼくはいう。そうは思わない、と。なぜなら、アンフェアな行為をした覚えがないからである。

次に、あくまで正当な批判であり、アンフェアな行為は一切した覚えがない、という主張について。
「GiGirさんの作品批判への反論の例として、作品批判をしていない増田の個人的感想を持ち出したこと」。そこが、アンフェアでかっこ悪く思えました。つまり、海燕さんには言いたいことが先にあって、それに彼を利用しただけではないのか? もしそうだとするなら、それはあまり正当な行為とは言えないのではないか? と。

 映画のなかである幸福な人物を描くとき、持たざる者に遠慮して、そこそこの描写でやめておこう、などと考える者がいるとすれば、その人物は本物ではない。たとえ見るものを絶望させるとしても、自分にできる最高の表現をするべきである。
 だから、ある映画を見ると死にたくなるというなら、そうなってもらうしかない。それは映画の問題というより、映画を見る者の問題であるように思う。

非モテが死にたくなってもべつにいいんじゃね? - Something Orange

言いたいことは、ここですよね。持てるものに対する嫉妬は映画の問題ではなく、お前の問題である。全くそのとおり。
しかしそれを映画の問題だ、と主張してるのはいったい誰でしょう? この名無しの彼は映画の問題にはしてないよね。むしろいい映画だと言ってる。では冒頭で引用しているGiGirさんでしょうか? GiGirさんに「例えこのような人が出てもそれは作品の欠陥ではない」と主張するために、特に映画の欠陥だと主張しているわけではない人物の意見を利用したのだとしたら、その使い方はちょっと酷い、と僕は思います。
以上!

サマーウォーズ』雑感

 その一方でこの映画は、いわゆる非コミュ的問題を抱えた人や家族という形態に不信感を持つ人たちのアレルギー的な拒否反応を呼んでいる。そういった心象を持つ人たちが仮託すべきキャラクターがちゃんと用意されているにも関わらず。この映画の抱える欠陥の根はここに見ることが出来る。

サマーウォーズにみる、表層の豊かさと、深層の軽薄さ - 未来私考

で、GiGirさんの作品批判に戻ってくると。いや、僕もあの映画は普通に楽しめたし好きなので、ここまではっきりとダメだと言われてるのは残念なのだけど……しかしまあ、細かい設定説明とか心情描写とか色々切り捨ててペラいまま突き進み、勢いで持っていった感のある映画なのは確かだよなあ、とは思うんすよ。それこそがあのさわやかで勢いのある印象を生んでる気もするので、欠陥なのかそうでないのか、けっこう判断に困るところ。
昨日記事書いたあといずみのさんとも色々と話してたんですが、「優先順位の問題で、最高の表現をするために切り捨てたのだ」という理屈をはたして『サマーウォーズ』に適用できるのかどうか?

 しかし、かれは、たとえば「東大、留学」のその裏にかくされた侘助の孤独を見ない。侘助と祖母栄とのあいだのコミュニケーション齟齬を見ない。たがいに愛しあい、思いあいながら、どうしようもなく傷つけあってしまうその切なさを見ない。

非モテが死にたくなってもべつにいいんじゃね? - Something Orange

実際あの映画は、ここらへんが見えやすい作りにはなっていないんですよ。意識的に切り捨てているのかあきらめているのかはわかりませんが、「最高の表現のためには切り捨てるしかない」ものである、とまでは僕は思わない。
出来うるならば切り捨てないほうが望ましい。でもそれであの面白さをキープできたかどうかはわからない。でも絶対不可能なことだとは思わないので、そうできたら最高だよね……あたりが僕の感想っすね。