等身大のオタク

そう、オタク文化、あるいは萌え文化について語るなら、この「後ろめたさ」の問題を回避することはできないでしょう。

 あるアニメなりマンガなりが好きだ、というとき、そこはかとなく感じる背徳感。あるいは、公の場でそう口に出すことをためらわせるあるかなしかの警戒感。その正体は何なのでしょうか。 
 〜 中略 〜 
私見では、オタク文化に対する当事者の「語り」は、とてもバランス感覚を欠いているように思います。

 ひとにいわれる前に自分でいおうと決意しているかのように卑下し自嘲する一方、「オタクは次世代のエリートだ」とか「萌えは純愛だ」などと大袈裟なことを言い出すこともある。

 ようするに、非常に感情的で過小評価や過大評価に偏りがち、冷静にほかの文化と比較した上で等身大の自画像を描き出すということができないわけです。


――「後ろめたさ」の意味するもの。

うん、たしかにオタク趣味って後ろめたいもんですね。どう言い訳したって「性的なもの」とか「子供っぽいもの」がオタク文化の中心にあるのは間違いないんだから。作品に実際にエロいシーンがあるかどうかの問題じゃない。
  
例えば、僕はエロゲのエロシーンは8割方スキップで飛ばすけど、だからといってエロシーンなんかいらないとは思わない。確かにエロゲのエロシーンって邪魔なものが多いけど、それでも、性的な背景があるからこその魅力って部分、どう言い訳したってあると思うんだよ。でも後ろめたいから「エロなんて飾りですよ?」とか言ったりする。ついそういうことを言ってしまう心理が、オタクってものの実像を見えにくくしているんでしょうね。
 
僕はオタク趣味にどっぷりはまっている人間ですが、それでもいまだに適切なバランス感覚というものがわからないんです。実際ここ数年、理想の「等身大のオタク」像というものを、ずっと模索している気がします。自虐でもない、開き直るのでもない、理想的な距離感。  
オタク趣味というものに後ろめたさは確かに存在します。それから目をそらしたくはない。でもやっぱり素晴らしさも存在するんです、だって大好きだもの。他では味わえないものをたくさん受け取って来ているもの。ただ後ろめたいから縮こまっていればいいなんてことは断じて思わない。  

実際リアルに見かけるオタクを観察すると、「自虐して縮こまる」→「開き直って逆に自慢する」に移り変わっているような気がします*1。でも、僕はその先が見たい。見たいというか、その先に行きたい。ばかにされても揺らがず、過剰に意識もせず、好きなものをそのままで好きでいられるように。  


それが僕の理想です。

*1:実際には両方が混在しているんだろうけど